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​印章の歴史

鎌倉と

伝統を引き継ぐ鎌倉
判や印の歴史

画像提供:鎌倉市観光協会、他

国家・団体・法人・個人がお互いの
「意思」や「責任」を確認し合う日本人にとって「信用」を示す大切な必需品。

神社参拝で受け賜るお札の「神璽」、鎌倉武士の出陣に使った戦勝祈願のための「御神印」、御利益があるとされる鎌倉の寺社仏閣の「御朱印」、武家や武士の「花押」、一般民の取引の「拇印・爪印」、鎌倉文芸の作品に使われた「落款・蔵書印」など、奈良・京都に続く鎌倉で印や判などの証明の文化が更に広がりました。​

また、鎌倉時代に男子が元服する時に花押の使用を認めた「判始の儀式」も現在では形を変え、子供が成人する際「親から子へ印鑑を贈る文化」として日本全国で根付きました。そんな歴史ある鎌倉で作る特別な印鑑をお届けします。

「璽(印)」は701年大宝律令「天皇御璽(天皇の印章)」から受け継がれる日本国の大切な文化です。

日本には、国家の印である「天皇御璽」と「国璽」があります。「天皇御璽」とは、詔書,法律・政令・条約の公布文,条約の批准書,大使・公使の信任状・同解任状,全権委任状,領事委任状,外国領事認可状,認証官の官記・同免官の辞令,四位以上の位記等に押印されています。また、「国璽」とは、勲記に押印され,「大日本国璽」と刻されています。

日本国憲法下の皇位継承儀式では、「剣璽等承継の儀」として皇位の証である剣璽(天叢雲剣・八尺瓊勾玉)と共に国璽と御璽の承継が行われます。これらは、脈々と受け継いできた皇室の大切な儀式となります。また、天皇陛下の御即位を広く披露するための「即位の礼」においても高御座内の天皇陛下の右側に「案(あん)」と呼ばれる台に「天皇御璽」と「国璽」が安置されています。

日本人にとって「印」は、701年の大宝律令から継承して来た尊い文化・慣習であり、意思表示や責任、信頼を示す大切な必需品です。契約をサインで済ます欧米とは違い、押印は、繊細で誠実に物事を決定する日本人ならではの独自文化でもあります。日本に訪れる多くの外国人にとっても非常に興味深く、印鑑は「日本の大切な歴史や文化」として捉えられています。

歴史文化伝統の地「鎌倉」

はじめて武家政権が誕生した都「鎌倉」はおよそ千年の歴史と文化、自然を堪能できる町です。源頼朝は源平の合戦で平氏を滅ぼし、征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開きました。また、頼朝と北条政子が夫婦円満で仲が良かったといわれ、多くの方が参拝しパワーをもらっている場所でもあり夫婦円満、良縁、子宝だけでなく勝負事、仕事、健康の神様が宿る地ともいわれています。

参照:鶴岡八幡宮

証明文化の伝播の地「鎌倉」

源頼朝が幕府を開き鎌倉時代に入ると、宋との交流が盛んに行われました。その中で種々の文化が導入され、僧侶、文人が落款印を使用し始め、政府や地方の支配者の間でも様々な形で印章が使われ始めました。また、個人や組織の証明として「印」を押す習慣が定着します。一般庶民の間に使われた「印」は拇印・爪印などで、文書に押していく習慣がより広まり、重要な書物には蔵書印、家柄を示す紋様の焼印なども使用されました。

武士・武家の間では、文書発給が急速に増えることで花押が印章化します。これは文書が本物か偽物かを判断する時に「花押」を照らし合わせることにより、政治的な信用を得るとともに大切な証拠になるからで、武士・武家の間において広く花押が用いられ始めました。​このように鎌倉の地で、「花押・印章・拇印・爪印・蔵書印・焼印」など証拠としての証明文化がより広がりました。
​鎌倉では寺社仏閣を建造するための資金集めに用いた「勧進札の印」や、石に彫刻した「滑石紋様の印判」などが出土されています。さらに、中世における出土漆器の作成過程においても印判を用いました。また、鎌倉時代の印章の担い手として禅僧による落款印が使われました。

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鶴岡八幡宮様の神聖なる「御判行事」

鶴岡八幡宮様の神符は牛王宝印(ごおうほういん)と呼ばれ、神威が込められており、古くは誓約書に使われていました。戦場に向かう鎌倉武士も、出陣に際して、この御神印を戴いた(いただいた)と伝えられます。
熊野神の神使の八咫烏の鳥文字と宝珠でデザインされ、社名などを表している護符です。 牛王宝印は、火難などの災難除け、病気平癒、厄除けなどの護符とされますが、一方では、裏面に起請文(誓約)を書く誓約書としても用いられました。 鶴岡八幡宮にも「牛王宝印」と呼ばれるご神符があります。こちらは、八幡神の神使は鳩ですので、鳩の鳥文字で書かれています。

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出展:鶴岡八幡宮

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お正月に行われる「御判行事」とは、御神印を額に押し当てることによって、病気平癒、厄除、無病息災を祈念するものです。またこの御神印によって頭脳明晰になるともいわれ、受験を目前にした学生が行事所に並ぶ姿も見られます。この御神印は常は本殿の奥深く、御神座近くに奉安されておりますが、お正月のこの時期に限り、行事所に移されます。

出典:鶴岡八幡宮歴史画集​「御判行事」より

鎌倉時代の印章の担い手 禅僧

鎌倉時代の印章の担い手としては、禅僧の僧侶を上げることができます。臨済宗円覚寺派の大本山である円覚寺を開山された無学祖元様の落款など、鎌倉時代を代表する僧侶が使用した印影が沢山残っています。日本に最新の禅文化をもたらした渡来僧や、中国へ渡った留学僧らにおって、当時の印章使用の文化がもたらされ、彼らが出す文書や墨蹟、絵画への賛文などに用いられるようになりました。こうした禅僧による印章の使用が、戦国大名による印章を用いた文書、いわゆる印判状の創出に影響を与えたものと考えられています。一部引用:印章刻まれた歴史と文化 山梨県立博物館

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臨済宗大本山

円覚寺開祖「無学祖元」
出典:花押・印章図典

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鎌倉時代文印
​(僧侶・文人)

武田氏ゆかりの菩提寺のひとつ、南松院(臨済宗)に伝わる武田信玄の姉 穴山信友夫人像の肖像画(右)と「天桂玄長」の印(右)。桃隠正寿和尚の肖像画(左)と「春国光新」の印(左)
甲斐河内領主穴山信友おび同夫人の帰依を請け鎌倉建長寺より下山天輪寺に住し永禄9年信友夫人が死去するやその菩提寺南松院の創設にあたり開山となった。

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出典:印章刻まれた歴史と文化 山梨県立博物館

滑石の紋様印判(鎌倉時代)
出典:武家の古都・鎌倉

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牛王宝印の札(鎌倉時代)

出展:大河ドラマ館

佐助ヶ谷遺跡出土の印判(鎌倉時代)
出典:武家の古都・鎌倉

鎌倉時代
蔵書印

「印判」で紋様を描いた中世の出土漆器
出典:企画展「出土漆器の美」

吉書始(きっしょはじめ)や判始(はんはじめ)

鎌倉時代では役所の開設や年首、将軍代始、任官、改元などにあたり、「吉書始め」と称して、奉行が吉書を草し、清書して将軍の御前に進めて御覧に入れ、将軍が吉書に「判(花押)」をすえる儀式が行われました。それが室町時代になると、将軍の就任後に初めて吉書におす儀式を、ご判始と称して、吉書始めと区別するようになりました。御判始の儀式は幕府殿中にて行われ、将軍は立烏帽子(たてえぼし)に直垂(ひたたれ)を着し、奉行が進める御教書に御判を署しました。現在でも天皇陛下の即位の際、三種の神器に加えて「国璽」(天皇の印)を承継されています。団体や企業においても、役職の就任の際、一つの節目として「印」を継承します。また、成人のタイミングに大人になる証として、お祝いに印鑑を贈る習慣も残っています。日本人にとって「判」は、役職就任や地位の継承における非常に大切な道具である事が歴史からも読み解けます。

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鎌倉時代から伝わる縁起の良い判や印

鎌倉時代の陰陽師 安倍有宗入道は、人々の判や印を見てその吉凶判断を行い、あまりに的中率がよいので評判になったそうです。​安倍有宗入道は、陰陽師として有名な安倍晴明の十代目の孫にあたると言われ、安倍一族は陰陽推歩の術を学び占術に通じ陰陽雑占を職業とする人達からも尊ばれていました。
安倍有宗入道については、「徒然草 第二百二十四段」にも記載があります。「
陰陽師有宗入道、鎌倉より上りて、尋ねまうで来きたりしが、先づさし入いりてこの庭のいたすらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は、植ううる事を努む。細道一つ残して、皆、畠はたけに作り給へと諌め侍りき。まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、益やくなき事なり。食ふ物・薬種やくしゆなど植ゑ置くべし。」

『雑々拾遺(ザツザツシュウイ)』にも安倍有宗入道の記載があります。「安倍有宗判うらなひ付明の大宗の事安倍晴明十五代の後胤從三位有宗入道は。天文の博士にて兼好が友人なり。ことに判形を見て吉凶をいふにひとつもあやまらず。人みな歸依しけり。もろこしにも此ためしあり。異國の書には字を分つ者とあり。みな判うらなひの事也。明朝の大祖いまだ只人のとき。行末の安否きかまほしくて。字をわかつ人の方へゆき。案内して庭に立ながらしか〴〵の事をたづねらるゝに。あるじ立出て何にても文字をかきてみせ給へといふ。大祖持たる杖にて土上に一文を書給ふ。あるじおどろきてさてもめでたき御事なりと拜伏す。とてものついでに今一字をみ侍らむといふ。大祖何ごゝろなく又問の字を書きてみせらるいよ〳〵うたがふ所なく天子の御器量あり。土のうへに一文字を加ふれば王の字なり。後の問の字をわかつ時は。左につけても右に付ても君の字なり。たのもしくおぼしめさるべし。〔…中略…〕大明の史傳に書きのせたり」

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・安倍有宗入道についての研究について

(引用)名古屋大学文学部 塩村ゼミ

​第二二四段に登場する「有宗入道」とはだれか

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その後時代は進み、判や印の相は、「判はんじ」や「印形占い」と言われてもてはやされ、「判は生命とかけ替え、首にかけよ」と言われたほどで、一般庶民の間でも印の重要性と同時に判や印の占断が流行しました。また、花押印による吉凶判断は徳川の歴代将軍や旗本諸大名から認められ陰陽道としてさかんに行われました。この頃に流行した花押印は、実用的であると同時に身を守る符としても大切に扱われます。紙に吉相の花押印を押してからその紙を焼いて灰にして飲むと、あらゆる難病がたちまちなおったり、武者修行や親の仇討、その他種々の用事で旅をする人々には大願成就、無病息災などの呪縛を籠めた印を作って氏神に参拝し、御神前で神の御加護を祈って捺印し、印は神壇に捧げておいて御影を御守り袋や御籠にいれて旅行に出たそうです。

印相は昔より、他に秘伝が洩れるのを恐れるために口伝として伝わってきましたが、江戸時代に土御門家で学んだ野洲佐野の大聖密院盛典が「印判秘訣集」という本を享保一七年に発行し、反響を呼び、享保二年に「名判精正録」、文政四年に「名判集成」が発行されています。近代でも姓名判断の元祖とも称される「五聖閣」熊崎健翁が、その理論を確立させるのに一役買ったとも言われています。このように古来より印章には、目に見えない不思議な力があると捉えられて来ました。

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御利益がある「鎌倉の神社・寺院の御朱印」

鎌倉には数多くの神社や寺院があり、参拝者に向けて押印される「御朱印文化」も発達してきました。御朱印の起源は、寺社へ写経を納めた(納経)際の受付印であったとされています。中でも13世紀前半には行われていた、日本全国66国を巡礼し1国1箇所の霊場に法華経を1部ずつ納める「六十六部」と呼ばれる巡礼が起源とされ、鎌倉の神社や寺院でも御朱印文化がより広まり発達したと考えられます。

鎌倉には、開運や厄除け、金運や恋愛運に関わる神社や寺院がたくさん有ます。十三仏巡りは、初七日から三十三回忌までの回忌法要にかかわる格調高い「巡礼」です。明王院、浄妙寺、本覚寺、壽福寺、円応寺、浄智寺、海蔵寺、報国寺、浄光明寺、来迎寺、覚園寺、極楽寺、成就院の寺院から成ります。また、鎌倉七福神巡りは、鶴岡八幡宮(弁財天)、御霊神社(福禄寿)、浄智寺(布袋尊)、宝戒寺(毘沙門天)、妙隆寺(寿老人)、本覚寺(夷神)、長谷寺(大黒天)で御朱印を頂くことで御利益を得られると言われています。

はじめて武家政権が誕生した都「鎌倉」はおよそ千年の歴史と文化、自然を堪能できる町です。源頼朝は源平の合戦で平氏を滅ぼし、征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開きました。また、頼朝と北条政子が夫婦円満で仲が良かったといわれ、多くの方が参拝しパワーをもらっている場所でもあり夫婦円満、良縁、子宝だけでなく勝負事、仕事、健康の神様が宿る地ともいわれています。当店の印鑑は、そんな鎌倉幕府の守護神ともいわれる歴史ある神社で祈祷した印材を使用しています。

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出展:鎌倉十三仏巡

出展:鶴岡八幡宮、鎌倉七福神巡り

鎌倉はんこでも、多くの神社や寺院の御朱印作成のご依頼を受け彫刻しております。

「鎌倉文芸」の印

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明治から大正にかけての泉鏡花や島崎藤村、夏目漱石、芥川龍之介らは鎌倉の地で執筆活動を行いました。鎌倉は交通の利便性、住むのに適した温暖な気候が、作家たちを鎌倉へ呼ぶきっかけとなり保養地として名声を高めました。
​文士達の作品には、蔵書印、落款、遊印など多くの印が押印されています。用途によって使い分けるため、彫刻士に依頼したものや自身で彫刻したものなど、様々な印を持ったと​言われます。(写真参照)

鎌倉在中の文筆家、作家、エッセイスト、画家、書画などの文芸関係者様から、印の作成のご依頼を受け彫刻しております。

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